「島風」を聴いてくださった大上さんが、「フォーククルセダーズみたいだ」と言ってくれたのがうれしかったことを、書きました。
「島風」がフォーククルセダーズみたい、と言われたことは意外だったのですが、「フォーククルセダーズの歌がなかったら作っていなかった」と自覚しているのは、「望郷」という歌です。
とくに「イムジン河」は、元気さんを会社に送る通勤の車の中で毎日聴いていて、滔々と流れる河と、その上を自由に行きかう白い鳥のイメージは、歌を離れても、私の心の中に風景画のように置かれるようになりました。
そんな中で、3・11の震災が起こりました。
二人で毎日、テレビの映像をただ見ていました。
津波と放射能によって変わってしまった被災地の風景と避難される方々のお姿を拝見しながら、ああ、どんなお気持ちで大切なふるさとを離れていらっしゃるのだろうか、と思っていました。
震災だけではありません。紛争、戦争、もっと個人的なこと・・・。
さまざまな理由で心ならずもふるさとを離れ、帰りたくても帰れない人はたくさんいるのでしょう。
そんなことを思うときにいつも浮かんでくるのが、滔々と流れる河とその上を自由に飛び交う白い鳥の風景で、その後二人で歌を作るようになってから生まれたのが、「望郷」という歌でした。
先日、新聞の読者欄で、「わたしは、唱歌「ふるさと」が歌えません。」という投稿を読みました。
初老の彼は被災された後、ふるさとを離れ、まだ帰れずにいると書いておられました。
ああ、まだまだ終わってないんだ、と思いました。
(写真、yama-p)(きなこ)
(♪写真をクリックしたら、「望郷」をお聴きいただけます。)
https://www.youtube.com/watch?v=3TS9Tu1WMlc
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しゅうじ (日曜日, 07 5月 2017 08:17)
父の話をします。
私の父は兵役として救援活動で8・6の二三日後には被爆地に入りました。ずっと病気がちでしたが、同じ部隊の証人が見つからず、60を過ぎた頃に奇跡的に被爆者健康手帳が交付されました。戦後すぐに手帳をもらっておけばそんなことにはならなかったのでしょうが、就職も、結婚もしにくかったというのがあったのでしょう。究極の選択ですね。それまでは大嫌いと言ってなかなか病院にも行ってくれなかったのですが、その後は何かあると直ぐ病院に行く病院好きに転身し、その後20数年生き延びることができました。
父はお酒が飲めないのにお酒が手放せない人で、それはそれは厄介なことでもありましが、とても不思議なことで、病院で度々検査をしてもらうようになってからセロトニンが異常に少ないことが判明し、お酒が薬代わりだったと判りました。あと白血球も以上に少なく、この2つは私も受け継いでいます。この2つについて父の戦前のデータがあるととても興味深いものになるのですが残念ながらそれはありません。
父が負傷者を収容した野戦病院の一つに陸軍船舶練習部というのがあります。そこは今は会社の敷地内(被爆建物として存命です。幽霊屋敷化しているのがとても残念なのですが。)にあり、私は毎日その建物の前にある社内バスの停留所を利用して通勤しています。
まだまだ終わりません。
終わらせる訳にはいきません。
私のふるさと大好きな父はずっと私のなかで生きていますから。
きなこ (日曜日, 07 5月 2017 10:28)
しゅうじさん、こんにちは。
まずは・・・、驚いています。
以心伝心って、やはりあるのでしょうかね? 実は、今、原爆のことを歌った音楽を作っていて、元気さんの音楽は昨日深夜に完成し、今、映像のコラボ作業をしているところです。おそらく今日中には完成しそうです。
そんな最中にいただいたしゅうじさんからのメール。その符合に、ただ驚いています。
しゅうじさんのご家族の「物語」を読ませていただきながら感じていたのは、しゅうじさんの中にお父様がいらっしゃるということ、お父様の「生」が、ご自分の命の期限と体の範囲を越えて、伝わっている、つながっている、ということです。それを伝えるバトンが、もしかしたら愛なのかなあ、ということも思いながら、読ませていただきました。
以前、コメント欄に、お母様が今も現役の美容師さんでいらっしゃることを書いてくださいましたが、読みながら、ここには書かれてないお母様のことも思い出していました。
お父様の不安と孤独と葛藤はどれほどだったろうか、それを家族としてしゅうじさんやお母様はどう感じて受け止めてこられたのだろうか、でも、今の熱くやさしいしゅうじさんを思うと、ご家族それぞれが、自分に与えられたものをしっかりと生きてこられたのだろうと感じています。
しゅうじさんが、このようなメールをわたしたちにくださったことを、心からありがたいと思っています。ありがとうございます。
しゅうじ (日曜日, 07 5月 2017 18:54)
「生きる」重みのあるよい作品ですね。
昨日岩国に帰ったら母から「おじいちゃん(父)の(月)命日に帰ってくるなんてさすがじゃね」と意表を突かれてドキっ。私よりも父想いのところをひけらかされました(笑)
岩国から広島への帰り道、子どもたちと夏に3泊4日で行く似島での野外活動の話になりました。似島は多くの原爆の犠牲者が助けを求め、そして亡くなられ、葬られた島で、宇品港までは父の持ち場でしたのでそんな話もしながらというのがあって今朝のコメントになりました。いろいろ符号しあったということですかね。
きなこ (日曜日, 07 5月 2017 19:42)
そうだったのですね。
お父さんとおばあちゃんの「大切な人」だったおじいちゃんの話は、きっとしゅうじさんのお子さんたちの心に、本よりも知らない誰かの話よりも、もっと深い戦争、原爆の記憶として伝えられたのだろうなあと思いながらコメントを読ませていただきました。
素敵なお父さんですね、しゅうじさんは。
「生きる」も、聴いてくださったのですね。
元気さんが初めてクラシックに挑戦した曲です。
ほめてくださってほんとうにありがとうございます。